臼杵城跡(臼杵公園)

国宝の臼杵石仏と並び臼杵市の中でも大変多くの方が訪れている場所が「臼杵城跡(臼杵公園)」です。

戦国大名の大友宗麟おおともそうりんが臼杵に移り住んで以後、臼杵城の前身となる丹生島城の基礎を築き、南蛮文化や明との交易を行って臼杵城下は国内屈指の商業都市へと発展させていきます。

その後、廃藩置県が置かれるまでの270年余りにも及ぶ、稲葉氏歴代が支配した江戸時代には臼杵藩の藩庁が置かれたことで、周辺には多くの武家屋敷が立ち並ぶ景観豊かな町並みを今も残しています。

臼杵城跡001
最終更新日:2021年1月12日
臼杵城跡(臼杵公園)までのアクセスと基本情報

臼杵城跡へは、日豊本線臼杵駅から改札を抜けて県道33号線をそのまま北東方向へ進みます。正面から入る場合は、途中の港町商店街入り口を左折して東へ進み大手門公園を回り込むこと徒歩で15分で古橋口(赤)まで。裏手の卯寅口(青)はそのまま直進して臼杵郵便局の向いに位置しており、徒歩5分ほどです。その他車の場合は今橋口(黄)から入ります。

基本情報は以下

住所 大分県臼杵市臼杵丹生島
入場料 入場自由
開園時間 特になし
所用時間 30分~60分
主な行事 毎年3月下旬~4月上旬にかけて行われる桜まつり
臼杵城跡(臼杵公園)の沿革

丹生島が四方を海に囲まれていた時代は地図で見てもわかる通り、島全体が亀の形をしていたこともあり、潮の満ち引きで見え隠れする岩が亀が首を出すようだと言うことで、別名「亀ヶ城」とも呼ばれていました。

また天然の要害を持つ海城として、全国でも類を見ないめずらしい城でした。

亀首櫓跡

鎌倉時代から続く、清和源氏の流れを組む大友氏の21代目当主である義鎮よししげは出家して宗麟となります。

時鐘櫓跡から

大友宗麟が臼杵に移り住んでから、永禄5年~6年(1562年~1563年)の間に臼杵城の前身となる丹生島城の基礎を築き、南蛮貿易や明との交易により城下を発展させます。

大友氏の支配後は、福原直高、太田一吉と当主が変わり関ケ原の戦いの後、戦国時代に美濃で活躍した斎藤道三の家臣稲葉一鉄の祖父「通貞」を始祖とする初代臼杵藩主である稲葉貞通が慶長5(1600)年に丹生島城へ入封します。

以後、15代当主の稲葉久通まで270年余稲葉家の統治下となります。

古橋口から

時は明治に移り、廃藩置県に伴って臼杵藩は廃止になり主要な歴史的建物のほとんどが取り壊されます。わずかに残ったのは畳櫓たたみやぐら卯寅口門脇櫓うとのくちもんわきやぐらのみ。

現在は大門櫓、鐙坂の白壁の城壁、天守閣跡の復元などを経て臼杵城跡全体が大分県の指定史跡として保存、城跡は公園として整備され春には県外からも観光客でひしめき合う桜の観光名所となっています。

臼杵城跡(臼杵公園)の見どころ

丹生島城の北からの入り口を「今橋いまばし」と呼び、西から入る門を「古橋こばし」と呼ばれています。現在の古橋口は明治35(1902)年に再構されたものです。

古橋口から入城

古橋口から天守まで上る坂は、馬具の一つで鞍の両脇に下げて足をかけるあぶみに形がにていることから鐙坂あぶみざかと呼ばれています。臼杵は地形的に阿蘇山が噴火した際に飛んでくる凝灰岩が多く、その岩を切り開いた道、切り通しが多い場所でもあります。

鐙坂

石段を上り切ると最初に目にするこの畳櫓たたみやぐらは、明治に東側の卯寅口門脇櫓と共に取り壊されるのを免れた貴重な櫓です。2階建ての入り母屋造りの屋根を持つ櫓で、正保年間(1644~1648年)に建てられたのが始まりとされています。

畳櫓

畳櫓の瓦には、稲葉家の家紋である「隅切折敷三文字すみきりおしきさんもじ」が見えます。

畳櫓の瓦

2001年(平成13年)に明治時代に撮られた写真や現存する2基の櫓などの手がかりを元に、復元された、大門櫓だいもんやぐらです。

大門櫓

大門櫓の南には、井楼櫓跡いろうやぐらあとがあります。稲葉藩政時代は藩主がここから「祇園まつり」をご照覧していたと伝えられており、この櫓跡からは臼杵市内を一望することができます。

井楼櫓跡

井楼櫓跡から望む「水ヶ城」。水ヶ城は鎌倉時代から室町時代にかけて臼杵を治めていた臼杵氏が戦時に築城した山城と言われています。

井楼櫓跡

臼杵護国神社は明治11年創立の招魂社とを明治12年創立の稲葉神社が昭和35年合併して稲葉神社の名称が変更された神社です。明治10年西南の役で戦死した霊が祀られています。

臼杵護国神社

天正四年(1567)ポルトガル副王より大友宗麟公に日本初の大砲が寄贈されました。宗麟はこの大砲を「国崩くにくずし」と名付けて量産、臼杵城に備えつけていたとされます。下の写真は公園内に展示されているレプリカです。(現在実物は靖国神社にある。)

国崩

大友宗麟公のブロンズのレリーフです。1937年に臼杵出身の彫刻家日名子実三ひなごじつぞうが宗麟を偲んで、城跡に建築しましたが太平洋戦争で政府に資材として献納したため、実物はのこっておりません。以下の写真は後に複製されたものです。

大友宗麟公のブロンズのレリーフ

下の写真は本丸の守りを強固にするために空濠(からぼり)を二の丸と本丸の間に人工的に作られたものです。

臼杵城跡004

天守櫓跡です。最近の調査で、文禄3年~慶長2年(1594~1597)に石田光成の妹婿で福原直高が臼杵城主だった時代に作られた可能性が高いとわかりました。かつては外観3層の内部が4階の天守櫓がこの場所に建っていました。

天守櫓跡

卯寅口は城中の鬼門(北東の方位のこと)にあたったため外郭岸上に城の地主神・丹生島明神を祀ったのが卯寅稲荷神社うとのいなりじんじゃの始まりとされています。現在は商業の神として港町商店街の商売繁盛の神として祀られています。

卯寅稲荷神社

卯寅口門脇櫓うとのぐちもんわきやぐら。外装は漆喰下見張りで屋根は切妻屋根の櫓です。用途はその時代によって様々だったとされています。畳櫓と共に取り壊しを免れた貴重な櫓です。

卯寅口門脇櫓

臼杵公園では毎年、春さくらが満開になる時期にはさくら祭りが開催されています。

さくら祭り

また空濠周辺や天守櫓跡の近くにイチョウやモミジの木が植えられており秋には紅葉がりも楽しめます。

紅葉
臼杵城跡(臼杵公園)のまとめ

いかがでしたでしょうか。臼杵城跡(臼杵公園)について、以下解説してきました。

  • 臼杵城は最初、戦国大名の大友宗麟の時代に丹生島城として築かれた
  • 当時は四方を海に囲まれていたので全国でも珍しい天然の要害を持つ海城だった
  • 大友氏支配の後、福原直高、太田一吉と当主が変わり慶応5(1600)年から270年余稲葉藩政の時代となる
  • 当時臼杵城には40以上の建物が建てられていたが、明治の廃藩置県により畳櫓、卯寅口門脇櫓を残して全て取り壊される
  • 現在は大門櫓など主要な建物の復元を経て大分県の指定史跡となり公園として整備されている
  • 春には桜のスポットとしてさくら祭りが開催され、大勢の人々でにぎわっている

臼杵城下町発展の発信地として、いつの時代も存在感のある城跡です。城内を普通に歩くとおよそ30分ほどで見て回れますが、じっくり案内板を読みながら回ると60分以上かかります。

本サイトで全てのスポットは説明し尽くせませんので、是非魅力的な臼杵城跡(臼杵公園)まで足を運んでみてください。

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