大友政親公の墓

大友政親公供養塔
大分県臼杵市の戸室台地の一角にひっそりと建つ覆屋の中には大友家16代当主、大友政親公の供養塔が建てられています。
大友・大内両氏の間の家督相続問題を契機に起きた「姫岳の合戦」を経て失った領土の回復に努め、父で大友家15代当主の親繁と共に朝鮮との対外貿易にも力を発揮した人物です。
アクセス
JR日豊本線 上臼杵駅の改札を抜けて県道を北上、臼杵川にかかる「万里橋」を渡ってさらに市道を300mほど北へ。途中左折して戸室台地への坂を上り、住宅街の中にある覆屋の中に供養塔が建てられてます。徒歩約20分。

戸室地域に建つ大友政親公供養塔の覆屋
大友政親公の生涯
大友政親は、1444(文安元)年に大友家15代当主の大友親繁と大友親隆(14代当主)の娘との間に生まれます。幼名は房丸。
将軍足利義政の一字を賜って政親と名乗り、1476年(文明8)年に家督を継いで16代当主となり父親繁とともに国力の回復に努めます。
大友家は1467(応仁元)年の「応仁の乱」以降2つに分裂し家督相続問題が続いていました。政親の代においても1484(文明16)年に子の義右(親豊)に家督を譲りますが、これが後に父子間で深刻な対立へと発展します。

この対立には、従兄弟の大聖院宗心(13代当主大友親綱の六男)一派が家督争いに策謀し、またその裏では中国地方の大内氏も暗躍していたといわれています。
1496(明応5)年に子の義右が病死すると父政親が毒殺したのではないかと疑いを掛けられ、追い詰められた政親は国内を脱出します。
大友家の一族で筑前の立花氏をたよって国外へ落ちのびますが、途中の赤間関(山口県)で大内義興の家臣に捕らえられ、同年長門国(山口県)の舟木地蔵院で義興に切腹をさせれて死去。享年53歳。
家臣がその棺を臼杵に持ち帰り、遺命に従って大友15代当主大友親繁(おおとも ちがしげ)の墓の近くに葬ったといわれています。

大友政親公供養塔
18代目当社は叔父の親治(ちかはる)が継ぎ、一連の反乱を鎮圧し大友家を再興します。
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