大友親繁公の墓

大友親繁公供養塔
大分県臼杵市の戸室にある一乗院(心源寺)には15代当主大友親繁公の供養塔が建てられています。
戸室台地とよばれる小丘に位置し、東には臼杵湾を一望できる風光明媚な場所となっています。
アクセス
JR日豊本線 上臼杵駅の改札を抜けて県道を北上、臼杵川にかかる「万里橋」を渡ってさらに市道を300mほど北へ。途中左折して戸室台地への坂を上り、「大友政親公の墓」から約100mほど北東へ。
大友親繁公の生涯
大友親繁(おおともちかしげ)は1411(応永18)~1493年(明応2)に活躍した、大友家15代当主 室町時代の守護大名・武将です。
1467(応仁元年)年に起きた「応仁の乱」を経て大友家は中国地方の雄、大内氏を巻き込み持直派と親綱派の2つい分裂して長い期間、家督相続争いが絶えず続くようになります。

戸室台地から臼杵湾を望む
幕府はこの対立に介入し、豊後守護職に大友親綱(13代当主)を一方的に安堵します。これに対して大友持直(12代当主)は豊後、筑後の両国守護を自分であると突っぱね問題は平行線をたどります。
大友持直(12代当主)には大友親著と大友親繁(後に15代当主)、大内持盛、大内教幸らが味方につきます。対して幕府が推す大友親綱(親著2男・後大友家13代当主)には大内持世や、大友親隆(持直の弟、後大友家14代当主)がつくというまさに骨肉相食む複雑な争いが行われることになるのです。

その後も両家の争いは絶えなかったのですが、1444(文安元)年に両統迭立政策(家督分裂した場合の跡継ぎは両統から交互に出す鎌倉以降続く決まりごと)の影響もあり大友親繁は14代当主親隆の娘を妻として迎え家督を継いで15代当主となります。
親繁が当主になって以降、朝鮮との貿易も以前にも増して盛んに行われるようになります。1476(文明8)年に長男の政親に家督を譲り親繁は隠居、1493(明応2)年83歳で死去。政親は父親繁のためにここ戸室の地に「心源寺」を創建します。
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