光蓮寺
光蓮寺は、大分県臼杵市大字福良にある浄土真宗本願寺派のお寺です。
当時この地は風光明媚な臼杵七島の1つで伊勢島大明神を祀った鵜鷺島とよばれた小島でした。
1586年(天正14)臼杵に侵攻した島津軍に対して大友宗麟公は日本初大砲「国崩し(フランキ砲)」を臼杵城から撃って光蓮寺の建つ鵜鷺島に陣を張っていた島津軍を撃退したとも言われています。

光蓮寺へのアクセスと基本情報
JR日豊本線 上臼杵駅の改札を抜けて県道506号線を進みます。ほどなく県道33号線と合流しさらに北へ数十メートルほど進んだ左手に壮麗な御成門が見えてきます。徒歩約7分。
基本情報
住所 | 〒875-0053 大分県臼杵市大字福良87 |
電話 | 0972-62-2805 |
拝観時間 | 特に記載なし |
拝観料 | 拝観自由 |
創建 | 1604(慶長9)年 その後1689(元禄2)年現在地に移転 |
開山 | 浄念 |
宗派/山号・寺号 | 浄土真宗本願寺派 山号は優西山(鵜鷺山) |
光蓮寺の由緒
草創は1508(永正5)年に大友氏ゆかりの横浜長門守時広による結庵に始まるとされています。

時広の死後、天正年間(1573~1592年)に精舎を焼失してしまったために、1598(慶長3)年に再興を志して、本多大和守秋秀の子で府内(大分市)光西寺の衆徒だった釈浄念を開基とします。
寛永期には堂宇も完成していましたが、1689(元禄2)年に前年に発生した大火災により臼杵の城下町整備が行われます。臼杵5代藩主である稲葉景通公の命により、浜町より現在地の平清水(ひらそうず)に移築しました。

元禄期に臼杵の地でもキリシタンの取り締まりが厳しくなります。1703(元禄16)年の正月に光蓮寺は臼杵全町の踏絵所となり、2373人に踏絵が行われた記録が残されています。
1877(明治10)年に起きた西南の役(西南戦争)では堂宇を焼失してしまい、1895(明治28)年に再興されます。山門は、丹生島城(臼杵城)から移築した御成門で、稲葉家下屋敷の薬医門と同形と伝わっています。
光蓮寺の見どころ
JR上臼杵駅から伸びる県道を進んでくると、臼杵市の平清水(ひらそうず)と呼ばれかつて臼杵城西の玄関口とされた場所に出ます。

平清水は江戸期から明治期にかけて商人の町として栄え、現在でもその町の風情が残されています。
そんな平清水には、鵜鷺島と呼ばれる小さな島があったようです。臼杵川対岸から光蓮寺の建つ場所を見ると島の名残が確認できます。

大橋寺の建つかつての森島とは隣合わせで、現在ではその境界を確認することはできません。
県道を歩いていると、左側に壮麗な薬医門が見つかると思います。当時、丹生島で貴人を迎えるために設けた御成門を臼杵城から移築したと伝わっています。

山門の鬼瓦には、やはり稲葉家の家紋である「隅切折敷三文字」を見つけました。

門を入れば堂々たる風格をまとう本堂。入母屋造の本堂には曲線が美しい唐破風の玄関がひと際目を引きます。

本堂脇には親鸞聖人御影像が安置されています。

さらに御影像の反対側には、樹齢数百年は経つと思われる立派なソテツも植えられています。

1586(天正15)年に始まった大友氏と島津氏の戦い(豊薩合戦)では、島津軍が鵜鷺島の大きな柳の木の下に陣を張っていました。
大友宗麟は家臣の武宮親実に命じて、ポルトガル副王より寄贈された大砲「国崩し」を臼杵城から撃ちました。弾は見事柳の木に当たり驚いた島津軍は退却したとの逸話が残されています。
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