大橋寺
大分県臼杵市福良に建てられている浄土宗西山禅林寺派の寺院です。

大橋寺は臼杵川をはさんだ対岸から見ると、かつての森島のなごりと共に美しい堂宇の佇まいを実感します。
寺号は、大友宗麟公が永禄年間(1558~1570年)に参詣者のために向かいの掛町まで大きな橋を架けたことが由来となっています。

大橋寺へのアクセスと基本情報
JR日豊本線 上臼杵駅の改札を抜けて県道506号線を北東方向へ進みます。
途中県道33号線と合流しますがそのまま直進し臼杵川に架かる万里橋を過ぎ、さらに100mほど進んだ左手に「大橋寺」と書かれた扁額が掛けられた山門が見えてきます。徒歩約8分。

住所 | 〒875-0053 大分県臼杵市 大字福良平清水115 |
電話 | 0972-62-5963 |
拝観料 | 拝観自由 |
拝観時間 | 7:30 ~ 17:00 |
創建 | 1548(天文17)年 1628(寛永5)年 現在地に移転 |
宗派/山号・寺号 | 浄土宗西山禅林寺派、山号は法雲山 臼杵八ヶ所霊場第6番札所。 |
本尊 | 阿弥陀如来 |
開基 | 祐範 |
大橋寺の由緒
南都東大寺子院の僧だった祐範上人は秘匿されていた阿弥陀如来の尊像を奉じて西国を遍歴、 1548(天文17)年に臼杵七島の1つで産ヶ島に草庵を結びます。
後に大友宗麟公が祐範上人の高徳に深くうたれ、永禄年間(1558~1570年)産ヶ島(新地)に精舎を建立し、「西方寺」としました。

その後、参詣者の利便性をはかり対岸の掛町まで大きな橋を架けたことから大橋寺と呼ばれるようになります。

1600(慶長5)年に岐阜県の郡上八幡より稲葉氏が臼杵に入封した後、寛永5(1628)年に稲葉家3代藩主稲葉一通公により現在地の森島に移転します。(※当時の臼杵川の川幅はさらに広く、現在大橋寺があった場所は森島という島になっていました。)
江戸期にキリシタン弾圧が厳しくなると、大橋寺6世の鏡空歴道上人は当時掻懐地区にいた隠れキリシタンを当寺の檀徒であると証明し、窮地を救ったとの言い伝えが残されています。
1877(明治10)年に明治新政府に不満を抱く鹿児島の士族たちが、西郷隆盛を総大将として起こした反乱(西南の役)ではここ大橋寺も大分県の警視隊本部が置かれ薩軍との戦場になりました。
大橋寺の見どころ
山門は切妻屋根のほか左右の控柱にも屋根がつく、ユニークな一間一戸の高麗門となっており、市の文化財にも指定されています。

山門を入ると、左手には四脚門である中門と右手に観音堂楼門、中央に鐘楼が建てられています。打込み接ぎで積まれた石垣や塀と共に建つ壮麗な伽藍が見られる寺院はめずらしいかもしれません。

外観からわかるように、有事の際は臼杵城(丹生島城)の出城(砦)の役割も果たしていたそうです。
中門をくぐると正面には、入母屋造の屋根が美しい本堂が建てられています。大橋寺は伽藍全体が褐色で統一されており、古寺らしい趣が感じられます。

後ろを振り返れば眼下には龍原寺三重塔、その向こうには臼杵の山々が見える眺望。寺町ならでは美しい風景にしばし時を忘れてしまいそうです。

本堂では「外陣」の礼拝スペースまで入ることができ、ご本尊である阿弥陀如来像の豊かな表情を拝見できます。

本堂から続くお堂の中には、西南の役で薩軍が撃ったものと思われる弾痕跡が今もそのまま残されており、戦いの壮絶さを物語っています。

境内には他に大友宗麟夫人の五輪塔や、大友宗麟に忠節を尽くして中国から唐人町へ帰化した人、西南の役で竹田の地で奮闘した石丸警部など臼杵の歴史的人物の墓があります。
書院からは臼杵八景とよばれる景勝地の1つで中州に浮かぶ松島が見えます。臼杵七島と呼ばれ7つの島に分かれていた大友宗麟時代を偲ぶことができます。

大橋寺があるこの地域は、昔から平清水(ひらそうず)と呼ばれ、臼杵城へ入る西側の入口として重要な拠点となっていました。
もともとこの地に大きな井戸があり、きれいな清水がこんこんと湧き出たことに由来して「平清水」となったそうです。

平清水では江戸期には天保の大飢饉やキリシタン弾圧、明治に入ると西南の役など臼杵の庶民は様々な苦難を共にしてきた歴史的背景があります。
ちょうど大橋寺から臼杵川を挟んだ徒歩約5分の距離に「臼杵市歴史資料館」があります。ここでは縄文時代からの臼杵の町の歴史を知ることができます。
まず臼杵の歴史を知り全体像をつかんでから市内散策を始めれば、自然とフットワークも軽くなることでしょう。
大橋寺の御朱印
観音堂を入り石段正面の脇に寺務所があります。こちらで御朱印を頂くことができます。


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