安養寺
安養寺は大分県臼杵市市浜に建てられている浄土真宗本願寺派の寺院です。大友・太田・稲葉氏と歴代臼杵城主ゆかりの寺院でもあります。
開基した僧の慶念は、1597(慶長2)年、豊臣秀吉による朝鮮出兵(慶長の役)に従軍し、その様子を「朝鮮日々記」に記しています。
この日記は高校日本史の教科書でも紹介されていますので、記憶の片隅に残っている方もいるでしょう。

安養寺へのアクセスと基本情報
JR日豊本線 上臼杵駅の改札を抜けて、県道を北へ進み臼杵川に架かる万里橋を渡って南西方向へ。徒歩で約10分です。
基本情報
住所 | 〒875-0052 大分県臼杵市市浜472 |
電話 | 0972-62-4223 |
拝観時間 | 特に記載なし |
拝観料 | 拝観自由 |
創建 | 諸説あり |
開山 | 慶念(きょうねん) |
宗派/山号・寺号 | 浄土真宗本願寺派、山号は清音山 |
安養寺の由緒
大友宗麟の時代に堂宇を焼失してしまい、創建については諸説あります。
僧の慶念(きょうねん)は、大友氏滅亡後に臼杵城主となった太田一吉公の命により豊臣秀吉の1597(慶長2)年の朝鮮出兵(慶長の役)同行します。
その後、一吉公は慶念に市浜の領地を与えて再興。現在の地から西にある、呑碧の丘陵に一宇を建てたと言われています。

かつて安養寺が建てられていた呑壁の丘
また、慶念が朝鮮出兵に従軍した時に記した「朝鮮日々記」は現在でも貴重な資料として残されています。

1575(天正3)年に時の関白だった近衞 前久(このえ さきひさ)公が、薩摩(鹿児島県)から下向する際に安養寺に立ち寄ります。
前久公が「和漢朗詠集」を書き写す際に使用した市浜天神下の名水を気に入り、以来その水は「近衛水」または「揚抑水」などと呼ばれるようになります。
江戸期に臼杵3代藩主稲葉一通公が別荘地にしていた現在の場所に移します。
当時、寺域は河岸に面して船着場があり名松「戸部の松」が波打ち際にありましたが、現在は枯れて無くなってしまったようです。
安養寺の見どころ
JR日豊本線 上臼杵駅から平清水へ向けて進み、臼杵川に架かる万里橋を渡ります。

この万里橋は「市橋」と呼ばれ、1645(天保2)年ごろに懸けられた臼杵最長の橋だったようです。明治10年の西南の役で激戦地にもなりました。
橋を渡った先が市浜地区です。そのまま50mほど南下すると安養寺の山門が見えてきます。切妻造り、本瓦葺きの荘厳な四脚門となっています。

内部は梁の彫刻や蟇股に施された緻密な組物が圧巻です。建築の細部には職人技が光っています。


正面に入母屋造り本瓦葺きの本堂。歴史が刻んだ風格ある古寺の魅力が集約されています。

鐘楼は最近建替えたのか新しくなっています。

境内の西側に親鸞聖人の御影像が建てられていました。

堂宇の鬼瓦にある家紋は、「九条藤」でしょうか。五摂家の1つ九条家で有名ですが、接点が確認できないのでいまひとつ謎ではあります。

現在の安養寺から北西に200mほど離れた久保には、ちょうど市浜小学校の南側に天満神社(久保天神)と呼ばれる神社があります。
その崖下に現在も近衞前久が命名した臼杵の名水「近衛水」の跡が残されています。

久保天神の崖下にある天神川井戸(「近衛水」)
安養寺が建つ市浜地区は、大友時代から山と海に囲まれた狩猟採集に適した地域でした。
「市浜」と称するように、臼杵川河口左岸一帯には当時、市が立ち並びとても活気のある栄えた地域だったようです。
長い歴史の中で起きた戦乱や天災によって多くのものが失われた中で、市浜地区には往時を偲ぶことのできる貴重な遺構が今も多く残されています。
合わせて寄りたい周辺スポット
写真をクリックしますと、詳細ページにうつります。
大分県臼杵市の神社、お寺、史跡めぐりを中心におすすめ散歩コース、サイクリングコースなど詳しく紹介