大泊神社(御霊神社)
大泊神社(御霊神社)は大分県臼杵市大泊に鎮座する神社です。
大友氏のお家騒動「大友二階崩れの変」では大友20代当主大友義鑑(宗麟の父)が重症を負いその後死去。事件に関わった義鑑の老臣田口蔵人佐の息子である与一郎の霊が祀られた神社です。

大泊地区に生い茂る美しい鎮守の森。日中の境内は神々しい光に包まれ、深呼吸をすればスッと心が軽くなるようなそんな場所です。

参考までに臼杵市内には「御霊神社」と呼ばれる神社は合わせて5社(戸室・野村・大泊・風成・佐志生)あります。社号は同じですがそれぞれ御祭神がすべて異なっています。
今回は大泊に鎮座する御霊神社のご紹介です。
アクセスと基本情報
JR日豊本線 臼杵駅からバスで泊ヶ内方面に乗車、約10分程の大泊バス停で下車。そこから徒歩で約5分。
駅から大泊まで走る県道からは、風光明媚な臼杵湾と海にポッカり浮かぶおわん型の津久見島を見ることができます。


基本情報は以下
住所 | 〒875-0033 大分県臼杵市大泊 |
電話 | 情報なし |
拝観料 | 拝観自由 |
拝観時間 | 特になし |
創建 | 1845(弘化2)年 |
祭神 | 田口与一郎の霊、高龗神、恵美須神 |
関連リンク | 臼杵市HP-御霊社(その二) 臼杵市HP-田口石見守の墓 |
大泊神社(御霊神社)の由緒
1550(天文19)年に府内(大分市)上野原館で発生した「大友二階崩れの変」は、大友20代当主大友義鑑(宗麟の父)が跡継ぎに義鎮(宗麟)ではなく側室の子「塩市丸」に継がせようとした家督争いです。
義鎮(宗麟)を跡継ぎに押す家臣の1人田口蔵人佐は、共に塩市丸の跡継ぎに反対していた家臣2人が義鑑の謀によって殺されてしまいます。
自分にも被害が及ぶことを恐れた蔵人佐は、津久見美作と共に館の裏口から二階へ駆けあがり、塩市丸とその母や姉たちを殺し、義鑑を負傷させる事件を起こします。

田口、津久見両名はその場で壮絶な最後と遂げ、義鑑はその傷がもとで2日後に死去。この時大友義鎮(宗麟)は不在だったと言われています。
事件後、田口氏家族は反逆者となり三男の与一郎と長女の松江は討っ手を逃れ、大泊の村人によってしばらく蝙蝠洞にかくまわれます。
しかし内応者の密告によって捕らえられ、同年7月16日、ついにこの地で殺されてしまいます。

しばらくして村内で疫病が流行、一向に収束しない状況に村人は2人の祟りではないかと恐れ、1845(弘化2)年霊祠を建て与一郎の霊は大泊に、妹の松江の霊は風成へ御霊社として祀られました。
1873(明治6)年村社に列し、高龗神(たかおかみのかみ)を1878(明治11)年合併、恵美須神は字中崎浜から1885(明治18)年に合併します。
他に境内社として天満社(菅原神)、金刀昆羅社(大物主神)、日神社(大日女神)、稲荷社(倉稲魂命)、石鎚社(石土比古命)、山神社(大山祇神)、海神社(綿津見命)が祀られています。

見どころ
臼杵駅からバスで約10分。大泊バス停から、民家を抜けて山間を進むこと数分。鳥居が見えてきます。

林立する杉の巨木と山道は陽の光に照らされて輝き、広い神社の境内を歩くだけで自然と心と体がリセットされます。

境内には多くの社殿が建てられていますが、向かって一番右に鎮座するのが御霊社です。

入母屋造杮葺きの拝殿。簡素ながら深い軒によって先端まで緩やかに反った曲線がまた美しい。
本殿の前に立つと、圧倒的な存在感をもって今も息づく神々の世界を体感します。

狛犬はより御神体に近い場所となる本殿の縁に鎮座していました。

拝殿前の石段には、大友家の家紋である「杏葉紋(ぎょうようもん)」が刻まれています。

境内一番左には菅原神が祀られる天満社が鎮座しています。鳥居は1837(天保8)年に寄進されたようで、その佇まいから180年を経た歴史の深さを推し量れます。

境内にはその他に、金刀昆羅社(大物主神)、日神社(大日女神)、稲荷社(倉稲魂命)、石鎚社(石土比古命)、山神社(大山祇神)、海神社(綿津見命)が祀られています。

義鎮(宗麟)を跡継ぎにと田口蔵人佐らが起こした「大友二階崩れの変」を機に、大友宗麟が大友氏21代当主の座に就くことになりますが、蔵人佐たちが反逆者の汚名を着せられてしまうのは、因果な話でもあります。
反逆者の一族として誅された与一郎は、当時11歳とも16歳だったともいわれています。
なんとも悲しい物語に故人を偲び、与一郎の妹松江の霊が祀られる風成の御霊社と共に静かな古社へ祈願に訪れてみてはいかがでしょう。
合わせて立ち寄りたい近場スポット
写真をクリックしますと、詳細ページにうつります。
大分県臼杵市の神社、お寺、史跡めぐりを中心におすすめ散歩コース、サイクリングコースなど詳しく紹介