うすきめぐり用語集 は行

廃藩置県(はいはんちけん)

1871(明治4)年7月に木戸孝允や大久保利通らの明治政府は天皇中心の中央集権国家を実現するために、それまでの「藩」を廃止、藩知事は東京に住まわせて、府知事、県令を派遣して新たに「県」を置いた。このことにより政府の全国直接支配を実現させ、これまでの封建制度は崩壊した。当時の諸藩から反対や抵抗がなかったのは、明治維新の際に起こった戦争によって財政も困窮して疲れ果て、抵抗する気力が失われていたためなどとも言われている。

福原直高(ふくはら なおたか)

福原長堯(ふくはら ながたか)ともいう。?~1600(慶長5)年。安土桃山時代の武将。石田三成の妹婿。豊臣秀吉からの信頼も厚かったことで1594年(文禄3)年に臼杵城主として入部(5万石または6万石)。臼杵を統治していた頃の動静は特に記されているものはない。1597年(慶長2)年、府内(現・大分市)に転封。1600(慶長5)年の関ケ原の戦いで西軍(豊臣方)に属し、自刃。

分霊(ぶんれい)

神は唯一分けることができるため、「八幡神社」や「天満神社」など同社号の神社が全国各地に存在する。神社に祀られる神を分けることを分霊と呼ぶ。また分霊したことによりその力やご利益が弱まったり変化したりすることはない。

豊後国誌(ぶんごこくし)

豊後岡藩(現大分県竹田市)で編纂された地誌。同藩の唐橋君山(からはしくんざん)が編纂主任として1789(寛政10)年に着手。編纂途中で君山が急逝したため、儒学者の伊藤鏡河(いとうきょうか)や南画家の田能村竹田(たのむら ちくでん)らが後編し1803(享和3)年に完成。1804(文化元)年8月幕府に1本を献上。豊後国全域(国東・速見・大分・海部・直入・玖珠・日田・大野)にわたる地理、歴史や産物等について総合的にまとめた漢文の地誌である。

宝篋印塔(ほうきょういんとう)

もとは宝篋印陀羅尼経ほうきょういんだらにきょうというお経を納める供養塔を意味した。基壇(きたん)と呼ばれる基礎部分(台座)に塔身が載り、隅飾りと呼ばれる笠部と相輪はアンテナのような尖った部位を置く塔。鎌倉時代以降は五輪塔と共に仏教信仰のシンボルとして建てられることが多くなった。

満月寺 宝篋印塔