うすきめぐり用語集 あ行

稲葉氏(いなばし)

四国伊予の国(現・愛媛県)越智河野氏の流れを組む氏族。1600(慶長5)年12月に郡上八幡(岐阜県)から臼杵に入封。初代臼杵藩主は稲葉貞通で、以降15代久通(ひさみち)の時に1871(明治4)の廃藩置県が出されるまでの270年間臼杵藩を統治した。家紋は「隅切折敷三文字すみきりおしきさんもじ

臼杵城址 鬼瓦に刻まれた隅切折敷三文字
稲葉貞通(いなば さだみち)

1546(天文15)年~1603(慶長8)年、戦国から江戸時代に活躍した武将・大名。臼杵初代藩主。父は斎藤道三、織田信長、豊臣秀吉に仕えた稲葉一鉄(良通)。1600(慶長5)年の関ケ原の戦いの後、郡上八幡(岐阜県)から臼杵へ入封。臼杵城とその城下町の整備を行い、1601年(慶長6)年に二王座に多福寺(後に移築)と平清水に龍原寺を創建。1602(慶長7)年には諸士に贅沢を禁止する倹約の法令を出す。1603(慶長8)年9月3日、58歳で死去。

稲葉典通(いなば のりみち)

1566(永禄9)年~1626年(寛永3)年、戦国から江戸時代に活躍した武将・大名。臼杵2代藩主。父は初代臼杵藩主稲葉貞通、正室は織田信長の重臣丹羽長秀の娘。1600(慶長5)年父稲葉貞通が臼杵城主として入部した際に父と共に臼杵に入る。1603(慶長8)年父の死により後を継いで藩主となる。1608(慶長13)年海添村に清光山月桂院(月桂寺)を創建、また同年に龍原寺内に称名寺を建立し後に福良天満蜜寺(福良天満宮)と号した。1613(慶長18)年から徳川秀忠、家光からの命により各地の城の手伝普請(土木建築工事)を行い藩の財政を圧迫。また幕府が出した「禁教令」を受け、臼杵でもキリシタンの弾圧を行った。1624(寛永3)年11月19日、61歳で死去。月桂寺に葬られる。

稲葉一通(いなば かずみち)

1587(天正15)~1641(寛永18)年安土桃山から江戸前期に活躍した武将、大名。臼杵3代目藩主。祖父は初代藩主である稲葉貞通、父は2代目藩主の稲葉典通、正室は徳雲院(細川忠興と細川ガラシャの娘、多羅)。

1627(寛永4)年典通から家督を次いで3代藩主となる。元々臼杵にあった菊屋町を廃してあらたに田町を開く。1629(寛永6)年海添村に瑠璃山東光寺を創建、1631(寛永8)年、徳雲院の旧宅を改築して現在地に正覚山多福寺を再建。また1634(寛永11)年に田町に成道山見星寺を創建。

1635(寛永12)年家臣団の統制を行い藩行政の基礎を固める。1636(寛永13)年江戸城修築工事に参加。同年から続く旱魃(かんばつ)にも対応。1637(寛永14)年に島原の乱が起こり、幕府からの命で臼杵藩からも兵を派遣する。1641(寛永18)年江戸で没す。享年55歳

臼杵駅(うすきえき)

大分県臼杵市海添にあるJR九州鉄道日豊本線の駅。1915(大正4)年に開設。臼杵市の主要の駅となり特急「ソニック」、「にちりん」、「にちりんシーガイア」停車駅。臼津交通の各バスが運行。臼杵城跡(臼杵公園)稲葉家下屋敷多福寺は徒歩圏内、国宝臼杵石仏はバスで約20分、白馬渓はバスで約15分。

JR九州鉄道日豊本線 臼杵駅
臼杵小鑑(うすきこかがみ)

大分県臼杵出身で江戸後期の国学者である鶴峯戊申(つるみね しげのぶ)が1806(文化3)年に記した著書。臼杵についての実施調査と社寺記録・古文書・史書を参考に記された。戊申は臼杵八坂神社の社司でもある。

臼杵五社(うすきごしゃ)

大友時代から臼杵で特に厚く信仰された五社。祇園宮(臼杵八坂神社)臼杵大明神(臼杵神社)三嶋神社(三島神社)諏訪大明神(諏訪神社)貴船神社(野村御霊神社の摂社)

臼杵三名松(うすきさんめいまつ)

二王座多福寺の「雪窓松」、市浜安養寺の「戸部松」、海添青原寺の「腹切松」の三名松は臼杵にかつて存在していた、名高い名木。

臼杵七島(うすきしちとう)

江戸期以前の臼杵湾に面する臼杵市街地には、7つ島が存在していた。臼杵城(丹生島城)がある丹生島にうじま松島神社が鎮座する松島、大友宗麟が一大大橋を架けた大橋寺のある森島、光蓮寺のある鵜鷺島うさいじま、新地に残る産ヶ島うぶがしま、江無田の十六天神が鎮座する磯島、臼杵湾に浮かぶおわん型の竹島(津久見島)とそれぞれ呼ばれた。当時は「名勝臼杵七島」と呼ばれるほど、風光明媚な美しい島々だった。

風光明媚な津久見島が見える
臼杵氏(うすきし)

豊後大神姓であり臼杵荘を本拠地として活躍した一族。系譜など確実な資料がなく不明な点が多い。

臼杵惟隆(うすきこれたか)

臼杵二郎惟隆。生没年不詳。平安末期の源平合戦で活躍した豊後大神氏系武将である。臼杵維盛(うすきこれもり)の孫であり、緒方惟栄の兄。1181年(治承5)平氏打倒の兵を挙げ、1183年に太宰府攻略、1185年宇佐八幡宮焼き討ちで平氏を追い落とす。豊後(大分県)にかつてあった海部郡を所領として強力な水軍を形成した。宇佐八幡宮焼き討ちの罪を問われ上州(群馬県)沼田荘に流される。その後、鎌倉を追われた源義経の九州先導に失敗、その後は歴に名をとどめず。

臼杵隊(うすきたい)

1877(明治10)年に起きた西郷隆盛を盟主に不平士族の反乱、西南の役(西南戦争)では臼杵の地も戦場となる。薩軍の臼杵侵入に対応するため、元家老だった稲葉頼(いなばたのむ)を総指揮にすえ防衛目的の臼杵隊を組織。同年6月1日早朝より始まった臼杵侵攻では西郷軍の攻撃に、戦争経験のなかった臼杵隊が応戦。43人の戦死者をだし敗走した。6月10日に官軍の応援により薩軍が後退し、臼杵の町に火を放って津久見から小野へ退却した。臼杵城跡(臼杵公園)には臼杵隊の碑がたてられている。

臼杵城址(臼杵公園)に建てられている臼杵隊の碑
臼杵の名水(うすきのめいすい)

名水とは良質な水質と水量を保ちつづける、湧水、地下水、河川などを指している。臼杵市は大分県南部の豊後水道に面した地域だが、大きな水源がなかったため、昔から湧水や井戸を掘って生活用水としていた。現在では水道の普及と共に使用されなくなったが、近年の名水ブームや自然災害の影響などもあり再び脚光を浴びるようになった。

湧水は特に活断層や阿蘇火砕流溶結凝灰岩による断崖などに多く分布しているのが特徴で、標高20mに位置する臼杵はこの地形および地質などの条件が当てはまっているようだ。市内には、久保天神の参道脇にある近衛水、二王座にある金毘羅水、海添(かいぞえ)地区にある山下水など他にもいくつもの名水が湧き出た井戸の跡が点在している。

二王座の金毘羅水 久保天神の近衛水 海添の山下水
太田一吉(おおた かずよし)

太田宗隆ともいう。?~1617(元和3)年。安土桃山時代の武将。1597(慶長2)年、福原直高が府内(現・大分市)に転封後に臼杵城主となる。外部から商工人を臼杵に招いて、城下町の繁栄に力を入れた。臼杵城三の丸は太田一吉の手によって築かれたという。1600(慶長5)年の関ケ原の戦いでは西軍(豊臣方)に属した。中川秀成に臼杵城を攻め込まれ西軍の敗退が決まると、黒田官兵衛に臼杵城を明け渡し臼杵を去る。その後、京都で余生を送り病死した。

大友氏(おおともし)

鎌倉時代初期に相模国大友郷(現・神奈川県小田原市)で興った武家・士族。鎌倉時代に初代能直(よしなお)が豊後(現・大分県)守護を任され、以後約400年以上も代々これを世襲。3代頼泰(よりやす)の頃には府中(現・大分市)上野原に館を建て住み始める。21代当主の大友義鎮(宗麟)の時に全盛を迎え、北九州6カ国を治める一大勢力となる。その後島津氏との戦いに敗れ、衰退。

大友能直(おおともよしなお)

1172(承安2)~1223(貞応2)。鎌倉初期の武将、御家人。相模国大友郷(現、神奈川県小田原市)で興った大友氏の祖(大友氏初代当主)。父は近藤能直、母は波多野経家の養女。養父は中原親能と伝わる。源頼朝からの信頼厚く17歳で左近将監になり、1196(建久7)年に豊後・豊前および鎮西奉行に任ぜられる。妻である深妙とともに京都で生活し53歳、同地で死去。法名松光寺殿

大友宗麟(おおとも そうりん)

大友義鎮おおともよししげ(1530~1587)は現在の大分県を中心に活躍した戦国大名。キリシタン大名。大友氏21代当主。入道名として宗麟。洗礼名はドン・フランシスコ。日本史の教科書でも「キリスト教のひろがり」や「天正遣欧使節」などで度々目にし同じ時代には織田信長や豊臣秀吉も活躍した。1530(享禄3)年に父で20代当主大友義鑑の長男として生まれ1550(天文19)年の「二階崩れの変」の後、21代当主となる。北は毛利氏、南は島津氏、西は竜造寺氏と九州地域で覇権争いを繰り広げ、北九州6カ国を治める「九州王」にまでのぼり詰める。

九州六カ国制覇

1562(永禄5)年に府内(大分市)から臼杵へ移り、丹生島城(臼杵城)を築城。1578(天正6)年の「耳川の戦い」で島津氏に大敗、いっきに勢力を失っていく。1586(天正14)年豊臣秀吉に臣従し、秀吉の九州征伐が開始される。1587(天正15)年に津久見(大分県)で57歳の生涯を閉じる。

大友義鑑(おおとも よしあき)

1502(文亀2)~1550(天文19)年に豊後(大分県)で活躍した戦国期の武将。大友氏20代当主。大友義鎮(宗麟)の父。19代当主大友義長の長男として生まれ、1515(永正12)年に家督を継ぎ、20代当主となる。豊後・筑後・肥後を守護して各地で起きる反乱を鎮圧、さらに1534(天文3)年に豊前(現・福岡県)へ侵攻して大内氏との抗争を強め、これを退ける。1538(天文7)には大内氏と和睦。1550(天文19)年の「二階崩れの変」で深手を負ってその後死去。享年49歳。

大友義統(おおとも よしむね)

1558(永禄元)~1605(慶長10)年に活躍した戦国期から江戸期にかけての武将。大友氏22代当主。大友義鎮(宗麟)の長男。15代将軍足利義昭から諱を賜り「義統」と称し、その後豊臣秀吉からも諱を賜って「吉統」とも称した。1573(天正元)年に家督を相続。1592(文禄元)年の豊臣秀吉朝鮮出兵に従軍、小西行長軍の危機を無視し退却したことに秀吉が激怒、翌年大友領だった豊後から除国される。1600年の関ケ原の戦いにおいて、豊臣方(西軍)につき石垣原で黒田官兵衛に敗れて出羽国(現・秋田県)へ配流。後に常陸国(現・茨木県)で没す(※諸説あり)。享年48歳。

緒方惟栄(おがたこれよし)

緒方三郎惟栄。生没年不詳。平安末期、豊後大神氏の中で最も有名な古代終末期の武将である。兄に臼杵惟隆がおり、共に源平合戦で活躍した。大分県南西部に位置するかつての緒方町を領し、緒方荘官(荘園の管理人)であったとされる。1181年(治承5)平氏打倒の兵を挙げ、1183年に太宰府攻略、1185年宇佐八幡宮焼き討ちで平氏を追い落とす。宇佐八幡宮焼き討ちの罪を問われ上州(群馬県)沼田荘に流される。その後、鎌倉を追われた源義経に加担して運命を共にする。死去の場所については諸説ある。