何故広まった?浄土宗、浄土真宗の浄土教
織田信長との対立
再興された山科本願寺ですが、蓮如が85歳で没するとその後を第9世実如(1458~1525年)、第10世証如(1516~1554年)が後を継ぎますが、1532(天文1)年近江の守護大名である六角定頼らにより山科本願寺が焼かれてしまいます。
証如は蓮如が建てた石山御坊に移りますが、この建物が後に石山本願寺となります。その後11世の顕如(1543~1592年)が後を継ぐと、さらに戦国大名と伍するほどの強大な力をもつ教団となり、一向一揆が各地吹き荒れるようになります。
そのころ近畿地方一帯で勝利をおさめていた尾張の戦国大名、織田信長によって古くから大きな権威を持ち力を振るっていた比叡山と共に本願寺も最大の脅威となる存在になるとして目を付けられていました。
信長は足利幕府を復興させる名目で本願寺に莫大な金銭を要求し、一度は本願寺側がその要求を飲みますが、加えて本願寺の明け渡しまで要求してきたため、顕如がこれを拒否。1570(元亀元年)から10年にも及ぶ石山合戦が始まるのです。
1580(天正8)年に朝廷の仲介の元、和睦をして収束しますがこれを機に顕如は石山本願寺を離れて紀伊の国(和歌山県)に隠遁してしまいます。
分裂した東西本願寺

信長の和睦に最後まで反対していたのは顕如の長男である教如(1558~1614年)です。顕如は一時的に教如を義絶して本願寺を離れますが、最後まで本願寺に籠った教如は信長の攻撃に耐えられず退却、その直後に石山本願寺は失火により炎上し灰燼に帰します。
和睦からわずか2年の後、本能寺の変にて織田信長が討たれ豊臣秀吉によって天下統一がされます。秀吉は信長とは違い、本願寺とは友好関係をとります。1591(天正19)年顕如は秀吉から土地を寄進され京都六条堀川に寺院を建立します。これが現在の西本願寺です。顕如が急逝すると後を教如が継いだが、信長に最後まで抵抗した者が後次ぐことを秀吉が良しとせず、教如の弟の准如を立てます。
秀吉が死去して、徳川家康の時代になると1602(慶長7)年、家康は教如を京都六条烏丸を建てさせこれをもう一つの本願寺とします。こちらが現在の東本願寺ということになります。よって本願寺12世は2人存在したことになっているのです。
江戸時代以降
江戸時代になると、幕府が仏教を幕藩体制に組み込み寺院に厳しい統制が行われるようになります。本寺と末寺のピラミッドの関係を築く本末制度などです。
また宗門改め役を置いて全国民がどこかの宗派の寺の檀家(寺院に入信し、お布施をして寺の財政を助ける家のこと)にならなければならない寺請制度を強制し民衆への宗教統制も行われます。
檀家が生まれたことにより、経済的に安定した寺院は布教よりは檀林や学林などの教育機関を設立して僧の教育を行うようになります。
1868(明治元年)には明治政府により神道国教化政策が掲げられ「神仏分離令」が発令されます。寺院と神社を強引に分けた結果、仏教排斥運動が高まり、民衆が寺院を襲撃して仏堂や経典を破却する廃仏毀釈が全国で起こります。
この仏教界の危機を真っ先に回避しようと動いたのが浄土真宗本願寺派の、島地黙雷という僧でした。黙雷は明治新政府に対して「政教分離」と「信仰の自由」を訴える宗教改革運動を進めていった結果、この運動は宗派を超えて広がりました。
宗教改革運動により明治政府の神道国教化計画が頓挫、仏教は少しづつ苦境から立ち直り始めます。浄土真宗はその後北海道など辺境の地へと布教活動を広げ、現在では国内で最大規模の宗派になっています。
まとめ
今回”うすきめぐり”では浄土宗、浄土真宗の浄土教は何故広まった?についてご紹介しましたが、いかがでしたでしょうか。
要点をまとめてみました。
- 平安時代末期から浄土教が広がった背景には、末法思想という歴史観がある
- 京都で念仏を民衆に向けて歩きながら説いた空也は身を捨てて、民衆に尽くし人々に希望を与えた
- 日本浄土の祖と呼ばれた源信は日本人の死生観の概念である「往生要集」をあらわし貴族をはじめ多くの民衆の心を引き付けた。
- 念仏を唱えるだけで、長くて厳しい修行を行わなくても誰でも極楽往生が叶うと説いた法然は浄土宗を開く
- 法然のもとには御家人だった熊谷直実、公家の九条兼実、平氏一門だった源智など様々な身分の人々が門を叩いた
- 法然の弟子だった親鸞は承元の法難により越後に流罪になるが、そこで非僧非俗を宣言。妻帯して家族を持った
- 浄土真宗を一気に拡大させた中興の祖である蓮如。御文(御文章)と呼ばれた手紙の布教方法は当時画期的だった
- 本願寺11世の顕如の時代になると、戦国大名と伍するほどの勢力を持つようになり、織田信長と10年に渡る戦い石山合戦が始まる
- 豊臣秀吉から京都六条堀川に寺地を与えられ顕如が西本願寺を建立、江戸時代に入ると今度は徳川家康が12世の教如に京都六条烏丸にもう一つの本願寺である東本願寺を建立させ東西本願寺が分裂する
- 江戸幕府による本末制度や、寺請制度などで寺院の管理統制が強制される
- 明治時代に入ると、神道国教化により政府から神仏分離令が発布され、各地で廃仏毀釈運動が起こる
- 浄土真宗本願寺派の僧、島地黙雷の働きにより仏教は立ち直っていく
- その後、浄土真宗は北海道など辺境の地まで布教を広げ現在は国内最大宗派となる
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