何故広まった?浄土宗、浄土真宗の浄土教
鎌倉新仏教の幕開け、浄土宗
平安後期に破竹の勢いで広まっていった浄土教ですが、先駆けて宗派という形にしたのは法然だといわれています。
武家の出である法然は1145年に比叡山に上り、さまざまな宗派の知識を貪欲に学ぶ中、中国の浄土教の僧善導大師が著わした「観無量寿経疏」によって念仏こそが、人々を救うための唯一の方法であると悟ります。
1175年に比叡山を下りた法然は東山吉水にて教団を結成し、人々に専修念仏の教えを広めていきます。そしてこの1175年が浄土宗開基の年とされています。
法然の教えは南無阿弥陀仏の念仏を唱えるだけで、長くて厳しい修行を行わなくても誰でも極楽往生が叶うと説いたシンプルな教えであったため、一般民衆にはすぐ溶け込んで広がり、法然の名声が高まっていくことになります。
浄土宗に帰依した人物
法然が開いた浄土宗の教えはさまざまな身分の人の心も打ちその門下に入っています。
特に有名なのは、源平合戦で武功を立て鎌倉幕府の御家人だった熊谷直実(1141~1207年)です。一の谷の戦いで当時直実の子と同じ年だった16歳の平敦盛を討ちとりますが、その後悔の念を引きずります。また伯父との間で起きた所領争いなども引き金となり出家を決意、法然の門徒になり法名を蓮生(れんせい)と号しました。
また、鎌倉時代初期にかけて摂政・関白・太政大臣の職を歴任した五摂家の1つ九条家の祖、九条兼実(1149~1207年)は、長年連れ添った妻に先立たれたことで法然を戒師として出家します。さらに、将来を有望視されていた長男の死去により、深く法然に帰依することになります。承元の法難では朝廷に法然の配流の取りやめを働きかけますが、叶わず自領の讃岐に変更して庇護したといわれています。
平清盛の曾孫にあたり、平師盛を父に持つ源智(1183~1239年)は平氏の一族。源氏の追ってから逃れ13歳で法然の門をたたきますが、身の安全をはかり天台宗の慈円のもとで出家し得度(僧侶になるための儀式)。その後12年間法然のそばで学びます。1234(文暦1)年に法然の遺骨を納めた知恩院大谷寺と名付けた諸堂を建て後にこの寺院が現在の浄土宗総本山智恩院となるのです。
法然に学び、その後非僧非俗を貫いた親鸞

法然の弟子の1人だった親鸞ですが、当時浄土信仰は比叡山や奈良の興福寺などの旧仏教派からは非難の対象とされており、彼らは朝廷と屈託して圧力をかけていました。
そしてついに、1207年(建永二年、承元元年)に後鳥羽上皇によって念仏停止令が出され、法然の門弟4人が死罪、法然及び親鸞ら門弟7人が流罪になってしまいます。世にいう承元の法難です。
法然は四国の讃岐(香川県)へ、親鸞は越後(新潟県)に流されます。親鸞は僧籍を剥奪されますが、浄土信仰はより深い強固なものになっていきます。もやは僧侶にあらず、そして俗人(一般の人)でもない非僧非俗を宣言、越後で妻帯して子をもうけて家族を持つことで、非僧非俗を実践していきました。
1212(建暦2)年に、法然の死去の知らせを聞いた親鸞は妻子を伴って布教の場を越後から関東の常陸稲田(茨城県)の草庵へ移り以後20年に渡って自分の教えを世の中に残していくために書をしたためていきます。「教行信証」はその時期に起草されたものと言われています。
また、浄土真宗が教団化するのは親鸞亡くなった後のことです。
浄土真宗中興の祖、蓮如
親鸞が開いた浄土真宗の歴史で、さらに広く全国に広めた立役者が室町時代の本願寺8世の蓮如(1415~1499年)です。
親鸞没後、親鸞の末娘である覚信尼が建てた大谷廟堂をその孫の覚如が寺院化したのが本願寺の起源とされています。また当時、本願寺は天台宗の青蓮院(京都市東山)にある末寺として位置づけられ比叡山に管理されていました。一方で浄土真宗は関東で広がりいくつもの宗派に分かれますが、覚如の時に関東の門弟たちの反感を買い、本願寺は衰亡の危機に陥ることになります。
そんな状況で43歳で本願寺8代宗主になった蓮如は今一度親鸞の正しい教えを広め、本願寺を立て直しに奔走します。蓮如は北陸、東北、関東をを中心に自ら念仏の教えを説いて回ります。
本願寺のような新興の勢力が隆盛すると、必然的に旧仏教勢力との摩擦が生じます。ほどなくして本願寺は天台宗の比叡山から圧力がかかり、遂に1465(寛正6)年に2度比叡山ら襲撃を受けます。(寛正の法難)
本願寺を追われた蓮如は北陸の越前吉崎山(福井県あわら市)を布教の場として吉崎御坊を建立します。蓮如を慕う人々が全国各地から参拝に訪れ、1、2年もすると吉崎は大きな宗教都市に生まれ変わっていくのです。
これほど多くの人々から蓮如が信頼を得たのは、自身で考えた独自の布教活動があったからです。中でも「手紙」に教義(阿弥陀仏の教えが平易な文章で書かれたもの)をしたためる布教方法は「御文(御文章)」と呼ばれ、当時は画期的だったとされています。
また、蓮如は親鸞同様に自分と門弟たちの上下関係をなくし全員同じく平等に接することに重きをおきました。教義の際は僧俗関係なく膝を突き合わせて語れるようにした「平座」の形をとりました。
蓮如の活動により非常に大きな教団へと変化していきます。蓮如は門徒たちへの教えのなかで寄合や会合を定期的に行うことを進めますが、こうした活動が力を持ち後に一向一揆につながっていくことになります。
加賀の守護である富樫氏の内紛に門徒たちが関与したことで、やむなく蓮如は吉崎を離れ、あらたに京都山科に移り住み、ここで本願寺再興を果たします。
大分県臼杵市の神社、お寺、史跡めぐりを中心におすすめ散歩コース、サイクリングコースなど詳しく紹介