何故広まった?浄土宗、浄土真宗の浄土教

鎌倉仏教で浄土教といえば、法然を宗祖とする浄土宗と親鸞を宗祖とする浄土真宗です。現在、全国の各派合計では浄土宗は600万人、浄土真宗では1000万人を超す信者数をほこっており、特に浄土真宗は全体で国内最大級の仏教宗派となっています。

2つの宗派において共通した浄土教の教えは、念仏である「南無阿弥陀仏」を唱えて極楽浄土に生まれ変わることを説く教えです。またその特徴は「自力」で悟るのではなく、「他力」という阿弥陀如来の本願によって浄土に導いてもらうというものです。

当サイトで紹介している大分県臼杵市も、中心に位置する城下町には多くの浄土宗、浄土真宗のお寺が建てられています。山門の前にはそれぞれ寺院建立の由緒が記された案内板が立てられており、参拝に訪れると開山当時の様子を伺い知ることができます。

今回”うすきめぐり”では、平安末期からその頭角をあらわし発展していった浄土教が何故これほどまでに人々の心をつかんだのかを解説していきたいと思います。

最終更新日:2021年9月19日
浄土教が広がるきっかけとは?

浄土教が広がった背景には、末法思想という歴史観を知る必要があります。仏教には釈迦入滅後、時代が下るにつれ仏法が衰えていく、正法しょうぼう像法ぞうぼう末法まっぽうという三時にわける思想があります。

世の中が乱れ仏法の正しい教えが全く行われなくなる末法は1052(永承7)年から始まるとされており、くしくも日本では平安時代末期、政治的にも天皇の力が弱まり藤原氏を中心とする摂関政治が行われていた時代です。

地方には荘園を持つ領主たちが国から自分たちの土地を守るため、武装した人々の対立が激しくなっていくのですが、その代表が桓武平氏清和源氏です。

戦乱の他にも、同時期に天変地異が相次いで起こり飢饉により多くの死者が出る、まさに混沌とした時代に入っていくのです。

民衆に浄土教を広めた空也

そんな世情不安の中、京の都で「南無阿弥陀仏」と念仏を民衆に向けてひとり歩きながら唱えたのが空也くうや(903~972年)という1人の僧でした。

空也は私度僧(政府の許可を得ていない僧)として若き頃より諸国を渡り歩いて、念仏を唱え出会った人の極楽浄土行きを願いました。その行動は当時の人々にとって希望に満ちた教えであったとされています。

「南無阿弥陀仏」(念仏)を口で唱えることを称名念仏しょうみょうねんぶつまたは口称念仏といいますが、空也は念仏信仰のパイオニアとして伝えられています。

さらに、念仏を説く一方で道路や橋の補修などもすすんで行う他、貧しい人には施しをするなどまさに身を捨てて、民衆に尽くします。そのためか人々から「阿弥陀聖あみだひじり」、「市聖いちひじり」と呼ばれ、空也の生涯は慈悲に溢れていたといわれています。

念仏といえば鎌倉時代に発展した浄土宗や浄土真宗という印象が強いですが、その250年以上も前から空也という僧が民衆に広めていたことは意外に知られていません。

日本浄土の祖、源信

平安時代の終わりごろから阿弥陀仏にすがって極楽浄土に往生することを理想とする教えが民衆の心を強く引き付けていきました。これが浄土教です。

そんな浄土教を世に広めた立役者の1人が源信げんしん(942~1017年)という僧です。源信は比叡山にて天台教学を学んだあと、末法が近づいた世の中で人々を救う教えは浄土教をおいて他にはないと確信します。

そして現代にも通じる、日本人の死生観の概念である「往生要集おうじょうようしゅう」をあらわし、念仏によって極楽往生できる根拠をあきらかにして、貴族をはじめ多くの民衆に広がっていきます。

後に浄土宗を開いた法然も、浄土真宗を開いた親鸞も日本に念仏を広めた高僧として源信を尊敬していたといわれています。

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