平安時代の仏教をリードした最澄の天台宗と空海の真言宗を比較

遥かかなたのインドで起こった仏教はシルクロードを渡り、中国全土に広がり朝鮮半島を経て日本へは6世紀頃の飛鳥時代に伝来したと言われています。

飛鳥時代から奈良時代の日本において、仏教は最先端の文化として一部の権力者によって仏像や寺院が建立され、祈祷を中心に盛んに行われていました。

平安時代には、当時最新だった唐の仏教を現地へ留学して学び日本に持ち帰った最澄さいちょう空海くうかいは今まで日本の仏教にはなかった新たな思想をもたらします。

一時は師弟関係にもなった2人ですが、最澄は唐から「法華経ほけきょう」にもとづく中国天台宗の教えを持ち帰って比叡山にて天台宗を開きます。一方、空海は唐から「密教みっきょう」を持ち帰って高野山を道場として真言宗を開きます。平安時代に起こったこの2つの宗派を一般的に平安仏教と呼ばれています。

今回”うすきめぐり”では後の鎌倉仏教や貴族たちの仏教信仰に大きな影響を与えることになるこの2つの宗派について解説していきます。平安仏教を知れば、国宝の臼杵石仏観光や寺社参拝もより面白くなることは間違いないでしょう。

最終更新日:2021年8月15日
奈良時代の仏教の特徴

奈良の都である平城京では、国家仏教として多種多様な仏教の教えを取り入れていました。総称して奈良仏教(南都六宗)と呼ばれています。

聖武天皇は国家の安泰を願うため(=鎮護国家)に全国に国分寺・国分尼寺建立の詔を出して、奈良の東大寺を総国分寺として大仏を創りました。

一方奈良仏教では、広く民衆へ教えを説くことは「層尼令そうにりょう」にて禁止されていたため、貴族や天皇中心の祈祷や法要が行われていました。

その結果、道鏡のように政治に介入してくる僧侶なども現れ桓武天皇は794(延暦13)年、南都の寺との癒着を断ち切り平安京へ都を移します。

最澄が開いた天台宗

最澄は近江国滋賀郡おうみのくにしがごおり(滋賀県大津市)に生まれ、19歳で奈良の東大寺戒壇院で受戒(出家して戒を受けること)し、比叡山に入って山岳修行に専念します。

修行の中で天台大師・智顗ちぎの著作「法華経」に基づく「法華一乗」の思想に影響を受けます。36歳のとき、高雄山寺たかおさんじ(後の神護寺)で 天台の教えを説いたのを機に入唐還学生(宗教事情の視察を兼ねた短期の留学生)に選ばれます

804(延暦23)~805(延暦24)年までの1年間、最澄は遣唐使団の一員として中国の天台山にて法華経の教えである中国天台宗を学びます。

最澄が学んだ中国天台宗は、天台智使大師である智顗ちぎ(538~597)を開祖とし、その教えは「法華経」こそが全ての人々を救済する真の仏教経典であると説いています。その思想は「法華文句ほっけもんぐ」、「法華玄義ほっけげんぎぐ」、「摩訶止観まかしかん」とする天台三大部として表され、最澄もこの智顗の教えを日本天台宗の根本経典としています。

奈良の高僧らの政治介入に疑問を抱いていた桓武天皇は新しい仏教界のリーダーに最澄が適任だと806(延喜25)年に天台宗を正式に国家の宗教に認めます。こうしたことが後に最澄と奈良仏教界との対立を生んでいき、中でも法相宗の僧で徳一と最澄の論争は有名です。

一方で桓武天皇は「密教」に重きを置いていたのに対し、最澄が唐で学んだのは「法華経」がメインで密教は一部だったのです。そのため、同じ時期に入唐し密教の全てを学び帰国した8歳も年下の空海の弟子になり経典を借用しながら密教を取り入れていきます。

最終的に最澄と空海は袂を分かつ結果になりますが、以後最澄の教えは弟子である円仁えんにん円珍えんちん良源りょうげん源信げんしん天海てんかいによって引き継がれ日本天台宗が完成していくことになるのです。

天台宗の教えとは

最澄は唐で天台山の法華円教ほっけえんぎょう(法華経の教え)、禅、円頓戒えんどんかい(大乗戒)を修めるとともに密教を学び帰国しています。

中国の天台智顗が鳩摩羅什(くらまじゅう)の法華経をもとにしていたことから、天台宗もこの経典を基本にしています。法華経は一般的に「妙法蓮華経(みょうほうれんげきょう)」とも言われ、世の中すべての人を救う究極の教えが書かれた経典です。

禅は達磨によって250年頃にインドから中国へ伝わり、日本にも飛鳥時代に入ってきて奈良時代に本格的に広まったとされています。禅の教えはお釈迦さまの悟りの境地を自身でも体験して悟りを得る教えであり、天台宗では坐禅による瞑想を「止観(しかん)」と呼んでいます。

止観は法華経の教えを実践する重要な修行であり、最澄も止観に重きを置いていたとされています。

円頓戒は僧が守るべき戒律のことで、行動規範になります。例えば「あらゆるものの生命を大切にします(不殺生戒)」や「他の人の持ち物を盗んではいけません(不偸盗戒)」など宗派において、性別問わず守らなければいけないルールです。

空海が中国で極めた密教に対して、最澄が学んで日本に伝えたものは不十分なものでありましたが、弟子の円仁(慈覚大師)が再度唐に渡った際に空海以後の最新の密教を日本に持ち帰り天台密教を推し進めまていきます。

天台宗も真言宗も共通して教えているのは密教ですが、日本天台宗の密教を「台密(たいみつ)」と呼ぶのに対し、後述する真言宗の密教を「東密(とうみつ)」と呼ばれています。

空海が開いた真言宗とは

空海は讃岐国屏風浦さぬきのくにびょうぶがうら(香川県善通寺市)に生まれと言われています。18歳で大学に入学するも中退してしまい、山岳修行者から虚空蔵求聞持法こくぞうぐもんじほう(記憶力をつけるための修行法)を学び各地で修行に明け暮れます。その後、奈良県の久米寺で「大日経」に出会い、唐に渡ることを決意します。

804(延暦23)年の遣唐使団に留学僧の1人として選ばれますが、既に高僧として桓武天皇から信頼を得て遣唐使団に指名されていた最澄とは対照的に無名の僧でした。何故、空海は国が派遣する遣唐使船に乗れたのかは多くの謎に包まれ、さまざまな憶測がなされています。

当時、唐では密教を中国の国教として全土に広めた不空ふくうの教えを受け継ぐ恵果けいかが「大日経だいにちきょう」系統の密教と「金剛頂経こんごうちょうぎょう」の密教を解釈して統一密教思想の基礎を築き上げていました。恵果は最晩年に青龍寺で空海に出会い教えを伝えた後、没してしまいます。

空海は留学僧として唐に20年間の留学予定だったのですが2年(804~806)あまりで帰国、その影響もあり帰国後はしばらくの間、京に入ることが許されませんでした。

転機になったのは809(大同4)年に嵯峨天皇が即位すると空海は天皇について鎮護国家の大祈祷を行なったことで、朝廷から重用されるようになります。

その後京都の東寺を修行するための根本道場として、高野山に金剛峯寺を瞑想の修行場所にして密教を確立していきます。こうして空海の密教の教えは広く世の中へ受け入れられていくこになります。

さらに空海は天皇や皇族のような身分の高い人々ばかり教えを説いていたわけではありません。東寺の隣に綜芸種智院しゅげいちいんを開いて、庶民の子供向けの総合学校を開校し庶民の救済にも同様に力を入れていました。

宗教の教えはもちろん土木工事の技術にも長けており香川県仲多度郡にある満能池まんのういけが決壊した際は築地別当としてその修復にあたり、わずか3カ月で80kmにおよぶ池を再構するなどリーダーとしての才覚も発揮しています。

また書家としても才能を発揮し、嵯峨天皇、橘逸勢たちばなのはやなりとならんで空海は日本の三筆の1人としても有名です。

真言宗の教えとは

基本的に仏教の教えは釈迦の教えとされていますが、真言宗の教えである密教だけは大日如来の教えとなります。なぜなら、大日如来こそが宇宙の真理そのものであり数多いる仏さまは大日如来の化身であり、お釈迦さまもその1人だと考えているからです。

真言宗の密教は大日如来が説いた真実の教えであり、その名の示す通りすぐには理解するのが難しい秘密の教えです。よって師のもとで実践的に学ばなければ習得できないものであり、これまで釈尊が説いた仮の教え、分かり易い教えである顕教けんぎょうは真実の教えではないと説いています。

インド古来の仏教の特徴である呪術性、ヒンドゥー教(マントラ)を積極的に取り組んだ日本の仏教は真言、陀羅尼を行う断片的な初期の日本の仏教を雑部密教ぞうぶみっきょう => 雑密ぞうみつとし、雑密から悟りを求めていくものを純粋密教じゅんすいみっきょう => 純密じゅんみつと真言宗の経典「大日経」や「金剛頂経」で説いています。

また、真言密教は経典を読むだけではなく実践が伴うことも説いています。この世に生きているあいだに悟りに至るという即身成仏そくしんじょうぶつ曼荼羅などでは仏の世界を表現、手で「印」を結んで悟りを開くなどがあります。

天台宗と真言宗 比較表
項目天台宗真言宗
宗祖最澄(766~822)空海(774~835)
諡号(しごう)866(上観8)年
伝教大師でんぎょうだいし
921(延喜21)年
弘法大師こうぼうだいし
開宗年806(大同元)年806(大同元)年
本山延暦寺金剛峯寺
本尊一般的に釈迦如来大日如来
経典法華経大日経、金剛頂経
教え円、禅、戒、密密教
指示した天皇桓武天皇(第50代)嵯峨天皇(第52代)
奈良仏教との関係性敵対調和