何が違うの?臨済宗と曹洞宗

坐禅ざぜん瞑想めいそうといった言葉は、宗教に関心がなくても誰もが1度は聞いたことがあるのではないでしょうか。またお住まいの近くに禅寺があり定期的に坐禅会が行われているなど、気軽に参加できる場所もあると思います。

坐禅や瞑想は集中力の向上、常に平静を保つ平常心が身に着く、そしてひらめきなどの脳の活発化などにも効果があるとされ、ビジネスの一環として企業が取り入れている話も良く耳にします。

坐禅を行って修行をつみ、仏道をきわめていく宗派は総称して禅宗と呼ばれ、日本では武士が政権の中心で活躍した鎌倉時代初期に大きく発展します。

特徴は経典や教義よりも坐禅に重きを置き、仏教以外でも文化にも大きな影響を与えたことです。日本の禅宗の代表的な宗派は臨済宗りんざいしゅう曹洞宗そうとうしゅう黄檗宗おうばくしゅうがよく知られています。

今回"うすきめぐり"では日本の禅宗である中でも臨済宗曹洞宗に着目して、同じ禅宗でもどう違うのかを紹介していきたいと思います。もちろん臼杵市内の禅宗の寺院も合わせて紹介していきます。

最終更新日:2021年11月11日
禅宗の起源は?

禅宗は5世紀頃にインドから中国に渡った菩提達磨(ぼだいだるま)が祖とされ、達磨は中国の河南省かなんしょうにある嵩山少林寺すうざんしょうりんじにて坐禅を基本に修行を行っていたとされています。

達磨が渡った時代の中国はりょうの支配下にあり、初代皇帝の武帝は仏教を厚く信仰していたことで達磨をこころよく迎えます。多くの寺や仏像を造り崇拝してきた武帝が達磨に「私の功徳(仏さまのご利益)はどのくらいあるのか」を問うと達磨は「功徳などはありません」と答え少林寺を後にしたとされる話は有名です。功徳を期待して行う善行は、修行ではないといさめたとされています。

その後、達磨は石窟の壁に向かって坐禅を9年間続けたとの伝説が残されています。(面壁九年)そして達磨の後、慧可えか僧璨そうさん道信どうしん弘忍こうにんが禅の教えを受け継いでいきます。

8世紀頃になると中国は唐の時代になり、禅宗は臨済宗と曹洞宗など多くの宗派に分かれていきます。日本に禅の教えが伝えられたのは奈良時代とされていますが、教えが広まったのは鎌倉時代に宋の支配下だった中国へ渡った栄西えいさい(1141~1215年)、道元どうげん(1200~1253年)らによってです。

平安時代末期の仏教

平安時代の仏教といえば、最澄が興した天台宗と空海が興した真言宗が全国に広がりこの2つの宗派は平安二宗と呼ばれています。

平安時代も終わりごろになると、政治的にも天皇の力が弱まり藤原氏を中心とする摂関政治が行われていました。

地方には荘園を持つ領主たちが国から自分たちの土地を守るため、武装した人々の対立が激しくなっていくのですが、その代表が桓武平氏清和源氏です。

やがて2つの大きな勢力は源平の争乱(1180~1185)と呼ばれる長い戦いになり、同時に災害も重なって起こったために世の中が乱れ、多くの民衆や貴族たちは末法の時代がとうとう来てしまったのかと恐怖に陥っていました。

臨済宗とは

臨済宗の開祖は中国臨済宗、臨済義玄りんざいぎげん(?-867年)となりますが、中国から日本に初めて臨済宗を伝えた人物が栄西なのです。

栄西は1141(保延7)年に備中びっちゅう(岡山県)吉備津宮きびつみやの神官の子として誕生し、14歳で天台宗の総本山である比叡山に入り天台教学を学びます。

しかし当時の比叡山は戒律が乱れ、僧侶たちによる度重なる権力闘争を目にした栄西は絶望を覚えます。

そのような現状から、本場の中国天台山で天台密教を学びたいと思うようになり、1168(仁安3)年に28歳で念願の宋へ渡ることになります。その時に出会ったのが東大寺の大仏の再建に尽力していた浄土宗の僧、重源(ちょうげん)でした。

栄西と重源は天台密教を学ぶため共に天台山に上りましたが、既に中国天台宗から禅宗へと変わってしまっていたため、失意のうち滞在5カ月で重源と帰国してしまいます。

1187(文治元年)年、栄西47歳で再び宋に渡ります。今度はインドまで行きお釈迦様の遺跡を参拝して回る予定でしたが、臨安府で宋の役人に阻まれ目的を達成することができませんでした。

そこで中国の天台山に上り名僧として知られていた臨済宗黄龍派りんざいしゅうおうりゅうはの禅伯である虚菴懐敞(きあんえしょう)に出会い本格的に禅を習い始めます。そして4年の後、臨済宗黄龍派の悟りの証明書を授かることになるのです。

1191(建久2)年栄西は帰国、このとき中国から持って帰ったのがお茶の実です。帰国後、初の臨済禅の布教の場は九州の長崎平戸から始まりました。

九州の各地に寺院を建立していきますが、禅の教えをこころよく思っていなかった他宗派からさまざまな弾圧にあい、「興禅護国論こうぜんごこくろん」を記して禅の正当性を主張、争いを避けて鎌倉に移ることになります。

鎌倉幕府は栄西に信頼を寄せ、京都に建仁寺を建立し京都、奈良、鎌倉の3拠点で新たな総合仏教の道場を開こうとします。

栄西は1度目の宋へ渡った際に行動を共にした重源が担っていた東大寺の大仏殿を完成させたのち、1215(健保3)年75歳で亡くなります。栄西の死後、鎌倉時代中頃から中国の宋がモンゴルの元に滅ぼされると多くの禅僧が日本に来日してきます。そして亡くなった栄西の禅をさらに推し進め、臨済宗の興隆につながります。

この時来日したのが、蘭渓道隆らんけいどうりゅう無学祖元むがくそげん一山一寧いちさんいちねいという臨済宗の高僧たちでした。

臼杵市内の臨済宗の寺院はこちら 多福寺 福聚寺 見星寺
曹洞宗とは

1200(正治2)年、道元は天皇家の縁戚にあたる村上源氏の流れを組む名門の家に生まれます。そのままであれば順調に朝廷の要職にも就くことができる身分でしたが、幼くして父母をあいついで亡くしたこともあり13歳出家し比叡山に上ります。

比叡山で修行をしているうちに「人は生まれた時から仏になる本質があるのに何故仏になる修行をしなくてはいけないのか」と疑問を持ったといわれています。

道元の素朴な疑問に比叡山の諸師は答えてはくれませんでした。そして2年ほどで比叡山を離れ2度の留学宋を経験していた栄西の元を訪ねます。

道元は栄西の高弟であった明全みょうぜんのもとで修行に励み、24歳の時師の明全とともに初めて宋に渡ることになります。

入宋後、道元は教えを求めて各地を巡り、やっと出会えたのは中国曹洞宗の高僧、如浄にょうじょうでした。「正しい仏教の教えを受け継いだ師」として見抜いた道元にとっては衝撃的な出会いであったとされています。

如浄に出会って2年の修行の後、道元は大悟を得て帰国します。そして自ら学んだ禅の普及につとめ、さまざまな既成宗派の圧力に遭いながらも、禅の教えは少しづつ京や鎌倉に浸透していき多くの民衆を引き付けていきます。

道元の教えの特徴は「仏になろうとして修業である坐禅をするのではなく、仏になってただひたすら座る」只管打坐しかんたざを修行の根本に据えています。

同時期に活躍した浄土宗の法然、浄土真宗の親鸞は他力(阿弥陀仏の救い)によって救われると説いたのに対し、道元は自力での修行に励み仏になることを説いています。

その後、生涯を通して87巻にもおよぶ日本曹洞宗の禅の思想について記した「正法眼蔵しょうぼうげんぞう」を著わし、一方で民衆への説法にも力を入れたこともあり多くの信徒が入門、教団として拡大していくことになります。

比叡山からの弾圧がひどくなり、布教活動がむずかしくなった道元は越前(福井県)に移ります。道元47歳の時、越前に永平寺を建立し禅の道場としてひたすら厳格な修行に専念していくことになるのです。

時の執権であった北条時頼ほうじょうときよりの戒を受けて、鎌倉に下向して禅の布教につとめますが半年で越前へ戻ります。その後、厳しい修行が影響したのか道元は1253(建長5)年、病により54歳の生涯を閉じます。

道元の没後は懐奘えじょう義介ぎかい義演ぎえん瑩山けいざんと弟子たちが教えを引き継いでいくのです。

臨済宗と曹洞宗の共通点

日本の禅宗は宋に渡った栄西や道元らが日本へ伝えた教えであり、「坐禅」を修行の根本に自分自身をみつめ直すことで、雑念、欲、邪念から自分を解放して無になることで悟りの境地を目指します。

言葉や文字などの経典に頼らず、心と心で通ずるものが真理であると考えます。歩く、立ち止まる、座る、横になるなど人間の行いが全て修行であるとする「行住坐臥(ぎょうじゅうざが)」という考え方があり、中でも座る「坐」は精神集中に欠かせないとされています。

一方で禅宗の本尊については一般的に釈迦牟尼仏しゃかにぶつ釈迦如来しゃかにょらい)とされていますが、特に決まっているわけではなくさまざまな仏さまが祀られているのが特徴です。

臨済宗と曹洞宗の違い

道元も栄西のもとで学んだことで、2つの宗派の根本的な違いはありませんが日々行う修行方法や作務(清掃や労務作業)などの考え方に違いがあるといえます。

まず臨済宗の坐禅については壁を背にして公案こうあん(禅に関する問=禅問答)にひとつひとつ答えを求めて修行を行います。これは公案禅こうあんぜん看話禅かんなぜんと呼ばれ坐禅を通して自己を磨き仏心に気づいていく修行といわれています。

老師から1つの公案を出され回答の提出を求められ、答えを探して懊悩する日々の生活はきわめて厳しい修行であるとされています。

一方で曹洞宗の坐禅は、只管打坐しかんたざまたは黙照禅もくしょうぜんと呼ばれ公案を用いずにひたすら壁に向かって坐禅を行う修行です。坐禅は悟りを得る手段ではなく、「仏」そのものであるという考え方をしています。

道元は「正法眼蔵」のなかで坐禅を続けることで身心脱落しんじんだつらく(無我の境地に達する)することをえよと書いています。

禅の精神がもたらした日本の文化

日本文化の1つでもある水墨画は中国の唐の時代に成立したとされています。墨の濃淡で風景や動物などを表現したものですが、日本には鎌倉時代に渡来僧により伝えられ、山水画(禅の理想を表現した画)が描かれるようになりました。

浄土思想が隆盛を迎えた平安時代は平等院鳳凰堂などの「浄土式庭園」と呼ばれる池をつくって蓮を植えるなど華やかな庭園が多くつくらていました。鎌倉時代になると池や草木などをなくし砂や石で水の流れや山を見立てた「枯山水庭園」が盛んになります。水墨画の影響を受けたとされている枯山水は現代でも日本庭園の基本となっています。

栄西が中国から持ち帰ったお茶から、鎌倉時代には喫茶がはやるようになります。お茶は禅宗とともに広く普及し、雑念のない静かな精神状態をあらわす「わび」を重んじた「侘び茶」が発達します。後に千利休(1522~1591年)が禅の影響を大きく受けて「茶道」と呼ばれる道へと高めていく人物です。

まとめ

今回”うすきめぐり”では何が違うの?臨済宗と曹洞宗についてご紹介しましたが、いかがでしたでしょうか。

要点をまとめてみました。

  • 坐禅を行って修行をつみ、仏道をきわめていく宗派を総称して禅宗と呼ぶ
  • 日本の禅宗は武士が政権の中心で活躍した鎌倉時代初期に大きく発展、代表的な宗派は臨済宗、曹洞宗、黄檗宗がある
  • 禅宗は5世紀頃にインドから中国に渡った菩提達磨(ぼだいだるま)を祖としている
  • 栄西は2度目の中国渡来で虚菴懐敞(きあんえしょう)に出会い本格的に禅を学び日本に持ち帰る
  • 栄西は中国から帰国に際、お茶の実を日本に持ち帰りその後喫茶が広まったとされる
  • 鎌倉幕府は栄西に信頼を寄せ、京都に建仁寺を建立し京都、奈良、鎌倉の3拠点で新たな総合仏教の道場を開設し広がる
  • 栄西の死後、中国の宋は元に滅ばされ蘭渓道隆や無学祖元、一山一寧たち禅僧が来日し臨済宗をさらに推し進める
  • 曹洞宗の開祖である道元は比叡山での修行に疑問を持ち、2度の留学宋を経験していた栄西の元で学ぶ
  • 道元は栄西の高弟である明全とともに入宋し、如浄のもとで学び大悟を得て2年で帰国
  • 道元の教えの特徴は「仏になってただひたすら座る」只管打坐を修行の根本に据えています
  • 87巻にもおよぶ「正法眼蔵」を著わし、民衆への説法にも力をいれて徐々に道元の教えは広がる
  • 道元47歳の時、越前に永平寺を建立し禅の道場としてひたすら厳格な修行に専念
  • 北条時頼の戒を受けて鎌倉で布教するがすぐに帰国。その後厳しい修行が影響したのか道元は1253(建長5)年、病により54歳の生涯を閉じる
  • 道元の死後、懐奘、義介、義演、瑩山らが禅の教えを広めていく
  • 臨済宗と曹洞宗の違いは特に修行法である坐禅の考え方である
  • 臨済宗の坐禅については壁を背に公案(禅に関する問)に答えを求める公案禅、看話禅を行う
  • 曹洞宗の坐禅はひたすら壁に向かって坐禅を行う修行であり只管打坐、黙照禅と呼ばれる