大友宗麟と土佐一条氏

臼杵市芝尾地区にある石祠
臼杵市諏訪山の山麓、芝尾地区にある、大友宗麟の子女名が刻まれた石祠(せきし)を見に行ってきました。
熊崎川に架かる橋「明治橋」から北東方向に約1kmほど離れた場所にひっそりと置かれていました。
石祠には以下のような文字が刻まれています。
- 利根川道孝
- 清田太郎鎮忠
- 土佐国一条権中納言泰政公(当家の先祖)
- 清田新五右衛門阿波守
- 泰政公姫君の霊
- 天正六年 三月十八日
「天正六年」の1587年は織田信長に代わって豊臣秀吉が活躍した時代。特に九州では秀吉が薩摩(現・鹿児島県)の島津氏を破って九州統一がなされていた時期です。
石祠の中で中心に刻まれている少し大きめのフォント「土佐国一条権中納言泰政公」、これは戦国時代に活躍した公家、一条兼定(いちじょうかねさだ)公であることがわかっています。
一条氏とは土佐一条氏のことで、京都の名門一条家(五摂家の1つで関白になれる位)の庶家。応仁の乱(1467年~)を避けて京都から旧中村市(現・高知県四万十市)に下向して土着、京都の文化にならって中村を「土佐の小京都」と呼ばれるまで繁栄させた一族です。
土佐一条氏が移り住んだ高知県四万十市には全国的にも有名な最後の清流、四万十川(しまんとがわ)が流れています。

高知県四万十市を流れる「最後の清流四万十川」
四万十川の河口付近に築いた市街地は京都と同じ碁盤の目の町並みが見られ、500年の伝統を伝える「小京都」の風情を今でも残しています。

高知県四万十市の町並み
そんな土佐一条氏4代目にあたる一条兼定(いちじょうかねさだ)公は、土佐(高知県)で勢力を拡大していた長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)に中村を占拠され、1575(天正3)年に船で九州に逃れ大友宗麟を頼りここ臼杵に滞在したといわれています。
実は兼定の奥方は大友宗麟の娘(ジェスタ)であり、母は宗麟の父である大友義鑑(よしあき)の娘だったことから両家は姻戚関係にありました。

大友氏と一条氏の関係
当時は宗麟も九州六カ国を治め、各地の大名との領地争いがある中、一条兼定を助けて四国の長宗我部氏との戦いをサポートします。
しかし同年「四万十川の戦い(渡川の戦い)」で兼定は大敗を喫します。その後宇和島の戸島(へじま)に幽閉され、10年後の1585(天正13)年に生涯を閉じます。(この時土佐一条氏は滅亡)
その数年後に大友宗麟も1578(天正6)年の「耳川の戦い」で島津軍に大敗し、急速に衰えていくことになるのです。
ちなみに石祠に刻まれた他の人物、利根川道孝は宗麟の二男で大友親家(おおとも ちかいえ)の改名後の名前でした。そして清田太郎鎮忠と清田新五右衛門阿波守は同一人物とされおり、大友家の重臣だった清田鎮忠です。鎮忠は一条兼定と宗麟の娘(ジェスタ)が離縁した後、ジェスタと再婚しています。

芝尾地区にある石祠(全体)
何故、大友宗麟の子女名が刻まれた石祠が造られ、芝尾に置かれているのかは現在もわかっていません。
「歴史は事実か?」 という大きな命題は一旦横に置いておくとして、500年以上も前に活躍した人々が残した遺構にまつわる物語を知ることはとても興味深く、面白いものです。
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